2016年3月に出版された 海の生き物からの贈り物〜薬と毒と〜 を出版元の化学工業日報社からご恵贈いただきましたのでご紹介します。
著者は塩入孝之先生で、このブログの読者の多くは塩入先生の開発された試薬「DPPA(ジフェニルリン酸アジド)」や「TMSジアゾメタン」のお世話になったことがあると思います。この本は名城大学での講義を元に初学者向けにやさしく書かれたもので、内容は、海の生き物の概論、一般的な創薬の流れ、海から見つかった化合物にまつわるエピソード、海洋天然物化学の展望などについて書かれています。その中でも特に、海から見つかった化合物(主に薬と毒)にまつわるエピソードが豊富に盛り込まれており、紙面の多く(169ページのうち29〜163ページ)が割かれています。それらのうち医薬と農薬に関する興味深いエピソードをそれぞれ1つずつ引用して紹介します(本書では海洋生物の写真や化合物の構造式も掲載されていますが、ここでは省略して引用)。
ナマコから水虫の薬
島田恵年氏は、京都大学薬学部の学生であった当時に、彼の母の「ナマコが水虫に効く」という言葉をヒントに、ナマコの煮汁を作り、それを水虫に悩んでいる近所の人に使ってもらったところ、水虫が治ったと喜ばれました。島田氏は大学院に進学したものの退学し、自宅の物置を研究室にして10年研究を続け、1969年についにマナマコからホロトキシンと名付けた抗菌成分を抽出し結晶化に成功しました。日本はもとより米国、英国、ドイツですぐに特許をとり、また学術雑誌「Science」にその成果を発表しました。彼は乾燥ナマコの体壁をけずりとり、有機溶媒により抽出分画し、結晶性ホロトキシンを単離し、ホロトキシンが白癬菌を始め種々の真菌類の生育を阻害することを証明しました。(略)マナマコから得られたホロトキシンは今ホロスリンあるいはホロクリンという商品名で水虫治療薬として市販されています。
抗真菌作用のある海洋天然物は多数ありますが、薬として製品化されたものはホロトキシンのみです。島田氏は島田製薬所を設立してホロトキシンを有効成分とした水虫薬を製品化して販売し、現在もホロスリン製薬株式会社が事業を継承して販売しています。私が調べたところ、島田氏に関するより詳細なエピソードは 2010年7月5日の薬事日報(PDF、ホロスリン製薬サイト内)に書かれています。
釣りの餌から殺虫剤
魚釣りの好きな人は釣り餌にするゴカイとかイソメというミミズに似た動物をよくご存知でしょう。(略)昔から釣り師の間で「死んだイソメにハエやカが止まると死んでしまう」といわれていました。1922年に、東京深川の開業医である新田清三氏のもとに近所の漁師が来て、頭痛・吐き気がし呼吸も困難だと訴えました。その漁師の爪が赤くなっていたので聞いてみると大量のイソメを扱っていたというのです。新田氏はイソメが体調不良の原因と推察し、それから約20年の間イソメの成分を研究し、ネライストキシンと名付けた化合物を単離することに成功し、またこれが神経毒であることを明らかにしました。しかし残念ながらその化学構造を決めることはできませんでした。ほぼ同じ時期に三重江東農林学校(現 三重大学農学部)の稲川次郎教授が、イソメの殺虫性、魚類や哺乳類への毒性を報告し、イソメ毒の正しい分子式を提唱しましたが、大きく取り上げられることはありませんでした。
新田氏および稲川教授の研究の後、約20年の空白を経て1958年に、東京大学の橋本芳郎教授、岡市友利博士が取り上げるまで、イソメの成分は忘れ去られていました。橋本教授は海の生き物が産生している毒物の研究では世界をリードした方です。橋本教授のグループは、まずイソメの毒素の効率のよい単離法を開発しました。そしてその構造を確定し、ハエ、ゴキブリ、ガの仲間に毒性を示すこと、毒成分は身体の表面の組織の中にあり、イソメが死ぬとそれが体表面に出てくることなどを明らかにしました。
ついで武田薬品工業(株)の坂井道彦博士らは、橋本教授の研究を引き継ぎ、イソメの毒素ネライストキシンの合成、生物活性の評価・究明を行い、さらにネライストキシンと構造のよく似た仲間を数百個合成し、化学構造と生物活性の関係を調べました。そして殺虫性、哺乳動物に対する低毒性、安定性、安全性そして工業的合成のしやすさなども考慮して、殺虫剤カルタップ(商品名パダン)を発明し、1967年に世に送り出すことに成功したのです。(略)この釣り餌イソメの毒成分から発明されたカルタップは、動物由来の化合物をお手本にして創製された最初の農薬で、年間3000d以上が輸出されている日本が世界に誇る殺虫剤なのです。
カルタップは、着眼、有効成分の単離、構造決定、誘導体化、製品化まで日本人が行った「国産」の農薬だと言えそうですね。私が調べたところ、カルタップに関するより詳細なエピソードは 1972年の「化学と生物」の記事 に書かれています。なお、本書ではカルタップが生体内でネライストキシンに変換されることを例に、プロドラッグの説明がなされています。このようにエピソードを通じて、創薬、医学、化学、生物学などに関する事柄を学べるように工夫されています。
一方、本書で物足りないと感じるかもしれない点を挙げると、エピソードが豊富で読みやすい本に仕上がっていますが、そのぶん専門的な記述は少ない点、個々のエピソードや学術論文の参考文献は挙げられていない点があります。より専門的な内容が知りたい方や学術論文の参考文献が欲しいという方には、海から生まれた毒と薬 (本書の「おわりに」でお勧めされています) がその役割を担う本になっています。
このブログでは本書の海洋天然物化学にまつわるエピソードを中心に紹介しましたが、Amazon の「なか見!検索」では、目次、序にかえて、第1章の一部、おわりに、を読むことができますので、ご興味ある方はご参照ください。